花巻市の歴史的建造物調査-2

花巻市の歴史的建造物調査-2

花巻城下の大工の棟梁たち「時代を越えて感じるものづくりの心」

株式会社 木村設計A・T|代表取締役 木村 清且

古建築について

 日頃、何気無く見ている建物、神仏に拝礼している建物に、歴史的背景・伝承・製作人物像を、重ね合せると、その建物のすばらしさに新たな感動を受けます。このたび2つの古建築を、花巻市文化財として指定する経緯に拘ることができ、その内容を報告いたします。

胡四王神社拝殿・胡四王神社本殿 ― 2人の名匠が織りなす彫刻のハーモニー ―

拝殿 正面(写真1)

本殿 側面部(西側より)(写真2)

 花巻の東、胡四王山(標高176.6m)の山頂付近に、約1200年前の大同2年(807)に坂上田村麻呂が兜神の薬師如来を安置したのが、その始まりと言われる胡四王神社があります。

 これは、拝殿(写真1)(1867竣工、3間×2間、母屋造り、平入、軒高約18尺、棟木高約28尺、屋根勾配9寸5分)と、本殿(写真2)(1912竣工、正面約9尺×側面約7尺5寸、一間社流れ造、軒高約16尺8寸、棟木高約20尺6寸)からなり、それぞれ、拝殿が江戸幕末期に活躍した、2代目高橋勘次郎(1819-1908)48才の時の作で、本殿は大正期に活躍した、東和町小山田出身の小原樗山(1862-1927)50才の時の作であります。

 この2人の名匠は、共に、初代高橋勘次郎(1793-1865)の大和流彫刻の流れを伝承する家細工(その流派を継承する彫り手法)を取りました。

2人の名匠の作風に、影響を与えた、初代勘次郎と画人、橋本雪蕉

初代勘次郎 土仏観音堂(石鳥谷・1846)

橋本雪蕉作 筆俳人画像

 江戸時代、我が国の木造建築の技術が高度に発達した原因に、(1)工具の工夫が、あげられます。部材を精巧に仕上げるため、用途に応じたさまざまな工具が工夫され、これらを駆使して精巧な継手や仕口が作られ、木造技術が最高水準まで達しました。

 又、(2)特定の名家(大工家系)のみに秘伝として守られていた木割・規矩の技術の公開、秘伝とされた技術が木版本として出版・普及したため、大工の高い技術の修得が可能となりました。

 この様な時代背景の時、初代高橋勘次郎は、寛政6年(1794)、花巻の同心、釜津田藤左衛門の次男として生まれ、18歳で親の反対を押して、伊達藩古河の彦右衛門、加賀藩金沢の喜兵衛、衣川の源太夫、等々の門下で修業、大和流の建築や彫刻と算術を学び、規矩術を修め、この時期に、釜津田から高橋となり、江戸後期の流行した彫り様を、仙台・金沢時代によく研究し、独自の勘次郎の大和流の建て物と彫刻をしたと言われております。

 ここで、勘次郎より9歳違い亨和2年(1802)生れの、呉服商釜津田藤右衛門の4男、素淳を紹介いたします。釜津田素淳は、のちに、南画の境地をきわめる、橋本雪蕉と成るのであります。素淳つまり雪蕉は、人物・山水を問わず詩情あふれる静謐で気品に満ちた画風で、各地を「遊歴」し、そこでの師との交流によりその画風をきわめるのです。

 江戸で谷文晁、京都で浦上玉堂の子である春琴に師事、さらに鎌倉の建長寺で、水墨古典画の模写と、ひたすら画業に打ち込み、「詩画一如」ともいうべき南画における境地をきわめ、明治10年(1877)76歳で亡くなりました。江戸から京都、鎌倉、そして浅草で弘化2年(1845)南画人として名声をほしいままにし、慶応4年(1868)67歳で23年間居住した江戸浅草を去り、八戸へ居を移しました。

 この間、初代勘次郎、二代目勘次郎と橋本雪蕉は、ともども花巻川口町出身で親交がありました。雪蕉は、2人のために何度となく彫刻のための下絵を描き彼等の彫刻の手助けをしています。初代勘次郎は、棟梁たるものは「すべからく絵を学ぶべし」という考えを持っていて、そのことは二代目、および弟子の小原樗山(喜代治)にも継承されます。特に樗山(胡四王神社本殿の作者)は、雪蕉の門人である菊池黙堂に師事して絵を学んでいます。

 ここまで、初代勘次郎と橋本雪蕉の話しを詳しくしましたが、実は、この2人、9歳違いの兄弟であったという説があります。生前の二代目勘次郎を良く知る松川他次郎が明治35年(1902)に作成した「名匠高橋勘次郎二世之碑」(松川家文書の文面にその内容がある)に、照らしあわせた結果という説を支持する方が多くなっていることからであります。つまり2人は釜津田家から出た、兄弟であるということです。2人は、建築と絵画の分野で、江戸の文化を現在に伝えた郷土の偉人であります。

胡四王神社拝殿の特色

慶応3年(1867)に竣工した拝殿は、その彫刻にあると思います。

(1)向拝柱間の虹梁の装飾

 写真3に見るように、ケヤキ材造りの向拝空間の虹梁は、中央の蟇股に波頭を躍動感豊かにあらわし、左右へは竜尾から胴、向拝柱を背後から取り巻いて虹梁の木鼻である龍頭が互いを睨み合う形としています。前肢、後肢の踏ん張りも力強く表現されています。

(2)拝殿両側の脇障子の彫刻

 正面の右が上り竜、左が下り竜でほぼ丸彫に近い肉厚で竜身を波頭・雲形とともに迫真の出来で、構図に無駄がありません。(写真4・5)

拝殿向拝の虹梁の彫刻(写真3)

― 拝殿昇降の龍の彫刻 ―
脇障子左側・降(写真4)

― 拝殿昇降の龍の彫刻 ―
脇障子右側・昇(写真5)

拝殿 正面図

 さらに、拝殿の大きな特色は、写真⑥の軒支輪が付くべきところに雲形の彫刻。軒の組物は、二手先組物で通常丸桁(がぎょう)まで、軒支輪が付くところを、雲形の彫刻で埋め込んでいます。このように胡四王神社拝殿を飾る彫刻は、みごとであり二代目勘次郎の代表的作品であります。

(軒支輪をCG合成)↓

胡四王神社拝殿・本殿から

雲と鶴の懸魚(写真7)

波に亀の妻飾(写真8)

 今回、胡四王神社の調査から、江戸後期から大正までの花巻地方の古建築建立の背景を知ることで、真の・・・・・ものづくりを行った人々、初代、高橋勘次郎、二代目、高橋勘次郎豊吉、その弟子、小原樗山を調べてゆくに、彼等が去りそして残した建物を理解し、次ぎの時代にしっかり伝承する私達の役割りを痛感いたしました。

 しかし形だけではなく、当時の人々の「ものづくりの心」を感じ、多くの彫刻が、いきいきと生気をただよわせている様を見るに、私達は、それぞれの仕事の分野で多くの人々に深い感銘を与える様、がんばらなければならないと、強く感じました。

初代 高橋勘次郎の作品 二代目 勘次郎豊吉の作品

黒石寺・正法寺(水沢市・文化8年[1811])

松川家住宅(花巻市・文政13年[1830])

観音寺拝殿(花巻市・年代不明)

土仏観音堂(石鳥谷町・天保3年[1832])

願教寺本堂向拝竜図
(盛岡市・弘化3年[1846])

岩谷不動尊内宮の彫刻 大黒天・恵比寿の木彫
(花巻市)

吹張町・新町・鍛冶町3町の山車
(花巻市・安政4年[1857])

中尊寺地蔵堂

中尊寺白山堂

毛越寺

陸前横山不動の山門

山内薬師堂

釜石石応寺

など

胡四王神社拝殿(花巻市・慶応3年[1867])

黒石寺本堂(水沢市)

鳥谷ヶ崎神社本殿(花巻市)

安浄寺本堂(花巻市)

宝昌寺向拝(花巻市)

矢沢牛頭天王社本殿
(花巻市・慶応3年[1867])

など